俳句(はるひ句会)2016.7 通刊26号
2016年7月新作
- 会員の吉弘さんより=内藤丈草=の句碑が尾張富士山麓にあるとのご紹介があった。その句意を伺ったところ、「大原とは、京都・大原の寂光院。蝶とは*建礼門院の幻のようなものと言われる。かつて大原に行った時、寂光院の裏山に建っていた建礼門院の墓が苔蒸していたので、寂寞を感じたことがあった。丈草の「大原や・・」の句を見たとき、建礼門院が日本一不幸な女性に思われ、この句に惹かれた、とのお話だった。
*巻末の、つれづれメモご参照。 - そこで某日、旧友と大宮浅間神社に行き、「大原や・・」の句碑に対面した顛末である。
- 駐車場脇の掲示「句碑のみち由来」によると、山内には「現代著名俳人の句碑」、「俳聖 苑」、「句碑のみち」に多くの句碑が建立されたとあった。
- 幾つあるか分らないまま「大原や・・」の句を念頭に「句碑のみち」看板の矢印に沿って、石ころ道を、足元に気を付けて登り始めた。
- 山道の左側の崖際に、句碑群が5~10mおきに点在していた。草木を手折り、苔蒸して読みにくいのは指でなぞり、裏書の作者名をメモし、カメラに収めて経巡りながら「大原や・・」の句碑探しをスタートした。
- いつしか舗装道路と合流し、山頂めいた眺めになったため、「俳聖苑」を見落としたのを悟り、来た道を引き返すことにした。やがて右へ曲がる角に「俳聖苑」の大きな碑が目前に。「朝顔に・・」の千代女の句、「目には青葉・・」の素堂の句、「夏草や・・」芭蕉の句碑と共に、丈草の「大原や・・」の句が見つかり、一気に疲れが吹き飛んだ。
- 犬山の大宮浅間神社は、名古屋から交通の便もよく、名高い俳人の句碑や現代の俳人の句碑、近在同好の人々の句碑など100余基も点在していた。
(はるひ句会の皆さまと弁当持参で来てみたい、どの句碑が一番心に残ったなどと語り合いたい・・と感じた次第です)
メンバー新作ご紹介 作者名(アイウエオ順)
1.≪課題句≫ =「涼し」 (朝涼、夕涼、晩涼、夜涼、涼風)=
蔭山 政江 | |
鈴木 定夫 | |
鈴木 雅澄 | |
瀧本 憲宏 | |
徳永スエ子 | |
安田 公子(会友) | |
宮川久美子 | |
山根 円蔵 | |
吉弘カスミ |
2.≪自由句≫
蔭山 政江 |
鈴木 定夫 |
鈴木 雅澄 |
瀧本 憲宏 |
徳永 スエ子 |
安田 公子(会友) |
宮川 久美子 |
山根 円蔵 |
吉弘 カスミ |
3.お知らせ
次・9月号の課題は敬老の日(老人の日、年寄の日)です。
締切は8月15日です。
◆以下は はるひ句会お世話役つれづれメモより 内藤丈草、建礼門院などについて
≪内藤丈草 1662~1704≫
- 江戸時代前期の尾張・犬山藩の武士。出家して芭蕉に入門。十哲の一人。
- 芭蕉の死後、師の墓守に徹し、仏幻庵と称した。
*芭蕉の墓は滋賀県大津市の義仲寺(ギチュウジ)にあり、木曽義仲と巴御前の墓もある。 - 旧暦2月24日は〝丈草忌〟という。
松瀬青々の句 - 角川出版「合本俳句歳時記」季語、「朧月」の例句に、丈草の「大原や・・」 の句が載っている。
≪建礼門院 1155~1213≫
- 平安時代末期の覇者・平清盛の娘「徳子」のこと。
高倉天皇に嫁ぎ、安徳天皇(1180~1185)の母であり、院号を賜り建礼門院と称した。 - 文治元年(1185)、源平最後の戦いである壇ノ浦(山口県下関市)で平家が敗れ、建礼門院は5歳の高倉天皇を抱いて入水したが救助され、京都に移された。剃髪して大原の寂光院で、夫と子の冥福を祈り、余生を終えた。墓は寂光院の裏山にあり、大原西陵という。
≪大宮浅間神社≫
- 大平元年(729)木花開耶姫命と天照大神を祭神として尾張富士(276m)の山頂に創建され、子供の守護神という。
- 尾張富士は南の本宮山(292m)より低いため、近在の住民が木曽川の大石を山頂に積み上げる〝石上げ祭り〟で知られている。
- 平成7年、内藤丈草の没後300年を記念した句碑の奉納が計画され、山内の参道沿いに、100基を超す句碑が建立され、全国でも稀な規模の「尾張富士碑林」が整備された。
- 境内の「ひとつばたご」の木の脇に、物理学者、俳人、政治家(元文部科学大臣)として知られる、有馬朗人の句碑が建っていた。
――こうして内藤丈草の「大原や・・」の句に巡り会え、いい体験ができた。
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鈴木定夫 〒444-0113 額田郡幸田町菱池農基17-1
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