俳句同好会 はるひ2018.11 通刊40号
2018年11月 メンバー新作
数年前、「幸田町・三ヶ根駅西口前の御祖(みおや)神社の境内に、江戸時代の句碑がある」・・という町の地域史『深溝』を目にしたものの、訪ねることなく今日に至った。
何しろ200年余も昔に建てられた句碑であり、詠み人や時代背景などを調べるのに半年も掛かってしまった。また、幸田と歴史的な関わりのある九州・島原(本光寺に島原・松平氏の墓がある)や、句碑建立の時期とも重なる著名な出来事――〝長崎<フェートン号事件>〟との関わりを、現地の歴史保存関連施設にも問い合わせたりして調べてみたこともあった。
そうして多くの方々のご意見を伺い、ようやく人物、出来ごと、背景を知ることができたことによって<句意>を理解することが出来た。
*巻末の「つれづれメモ」・・ご参照。
1.≪課題句≫ =「冬」=(三冬、九冬、玄等、冬帝、冬将軍)
鈴木 定夫 | ![]() |
瀧本 憲宏 | ![]() |
宮川久美子 | ![]() |
山根 円蔵 | ![]() |
吉弘カスミ | ![]() |
2.≪自由句≫
鈴木 定夫 |
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瀧本 憲宏 |
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宮川 久美子 |
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山根 円蔵 |
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吉弘カスミ |
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3.お知らせ
次・1月号の課題は――「初春」(春、新春、迎春、明の春、今朝の春、花の春)です。
傍題はお手元の歳時記による。・・締め切りは、12月10日です。
お世話役 つれづれメモより
- 「人退く・・」の句碑について
句碑に刻まれている〝句〟の詠み人は――-
俳師・松籟庵は、実在の人物で、旗本の佐久間長利であり、俳号を「柳居」と称した。江戸の本所に居住した。貞享3(1686)年~延享5(1748)年。
1 発句者・一竹画不節は、深溝藩・板倉家の家臣(目付け役)の木平吉兵衛の俳号である。役目柄深溝に出向く機会があり、この句碑を建立した。
2 金子彦左衛門は、深溝村の庄屋であり、句碑建立の実務を担った。
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時代背景
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幸田町・深溝は、長年月深溝松平家の領地であったが、寛永10(1633)年に転出し、その後は板倉重昌(1588生~1638没)が深溝城主となった。
3 板倉家7代の城主・板倉勝宦の時代:文化3(1806)年3月4日午前10時頃、江戸の芝車町から出火し、増上寺―木挽町―和田蔵門―京橋―日本橋―神田―浅草へと・・幅750m・長さ10kmも延焼した。板倉家の藩邸は、現在の銀座3丁目の宝珠観音の場所にあって焼失した。被害は、大名屋敷80余、社寺86、町屋530余、死者1200名余に達する大災害であった。
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句意の考察
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以上の歴史的事実から、板倉屋敷を預かる木平は、最初は消化の指示に努め、状況急迫を知るや屋敷の人々を避難させ、主君の所在を求めて懸命に奔走したことであろう。
一方、主君の板倉勝宦は、翌文化4(1807)年に死去していることから、前年の大火の折に大きな火傷をしていたものとも考えられる。
――こうして木平は、毎年のように目付け役として幸田の深溝に来ている内に・・ 人退く 猶戻られず 夕ざくら ・・の〝句意〟が湧き出たものであろう。そして深溝の庄屋の金子が実務をこなして〝句碑〟が建立されたのであろう。
――この、句碑を調査・検討している内に(私こと)東京生まれ、空襲で被災した当時の記憶も、自然に脳裏へよみがえり、実感として句意を理解できたのも貴重な体験だった。
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平成の付け句
鈴木定夫 〒444-0113 額田郡幸田町菱池農基17-1