名古屋ゴムの青年期

■イロハのイから工夫を凝らして〝創った〟時代をふり返る

以下は、柳井宏さんの想い出を中心に、往時の社風や仕事ぶりなど、会社の青年期を共有された鈴木定夫さん、西山芳衛さんにも語って頂いた内容の要約です。

――柳井さんは、名工大への在学中から名古屋ゴム(株)の試験設備を始めとする設計に参画され、入社(昭和32年)後は「押出」部門の設備や生産方式の開発・改良に寄与されましたが、記憶に残る当時の社風を伺わせて下さい。

  • ひとことで表現すれば、「前向きな失敗は責めない」という雰囲気でしたね。
  • そうでしたね。何かを試みて失敗しても、さらに工夫を加えて試してみることができました。従って精神的に〝落ち込む〟ようなこともありませんでした。
  • 失敗もあり、再チャレンジをさせて貰ってカベを超えたりした歳月でしたが、生産に大きな支障を生ずるような事態は少なく、ふり返っても幸いでした。

――設計・開発担当者としてのやりがい・・ウラを返せばご苦労のでもあったその頃のご経験なり印象などをご披露頂けませんか?

  • 概してあの頃は、どこかに参考となる前例やモデルがあるのではなく、設計者が自ら考え〝創造〟して行かねばならない時代でしたね。
  • 「はじめからおわりまで」という名の始末書があり、成り行き上、時おりは書かされましたが、苦心して設計した機械設備にチョンボがあっても、そのことで叱責されたという記憶はありません。

――機械設備は整えられても、生産・納入の段階で問題が生じたこともあったのでは・・と思います。そうした想い出がありましたらお聞かせ下さい。

  • 昭和30年代には車の生産台数も少なく、また〝看板方式〟の時代でもありませんでしたので、いま振り返れば発注側(自動車メーカー)にも受注側にも、のどかな空気があったと言えるでしょうね。
  • 窓枠ゴムの納入不良が発生したため、トヨタ自工(当時)へ急遽出向いて本社工場・組み立てラインの近くで取替え作業を行いました。そこへ通り掛られた のが大野耐一さん(看板方式の生みの親、のちにトヨタの副社長、豊田合成の会長にも就任)で、いたずらっぽく「また来たのかね」と声を掛けられました。
  • (笑)今なら即座にラインストップでしょうね。

――幾つも、業界の〝常識〟を打ち破るような設備や生産方式が生まれていますが、そのエポックをご紹介願えませんか?

  • 〝常識〟打破には抵抗がつきものですが、首脳陣の理解と後押しがあってこそ困難も乗り越えられます。生産設備や方式の創造にもまさしく当て嵌まります。
  • 亡き津田さん(元取締役)による「電熱プレス」の開発アプローチには、「熱盤の温度がばらつく」などの理由で、社内に反対論が多かったとのことでした。それでも首脳陣の後押しがあったお蔭で、競合先に先駆けて「電熱プレス」を開発・実用化でき、高温・短時間・高能率な生産システムを完成できたのです。
  • 同じ津田さんによる「ゴム射出成形」へのアプローチも、業界には「ゴム射出などすべきではない」との〝常識〟が牢固としてあり、かなりのちも「邪道」と言ってはばからぬ同業者さえあった程でした。
  • 私も耳にしましたよ。〝常識〟を打破するチャレンジ精神と、理解して「やってみろ、試してみろ」と支えてくれた首脳陣・・双方あいまって成功がかち得られたのです。その事実を忘れてはならないだろうと思います。

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