名古屋ゴムの青年期

■技術の歩みを省みて

(以下の3話は、名誉会員・大野恒男様によるご執筆です)

◆ゴム材料の技術開発について

昭和30年代(1955~64)は、ゴム材料が従来の天然ゴムから合成ゴム使用へと急激に移行した時代でした。
合成ゴムはその種類により耐油性、耐熱性、耐候性など、大変良い性質を持っており、ゴム製品の用途も大きく広がって行きました。
しかし共通的な問題として、加工性が悪く、この材料を使いこなすには大変苦労しました。問題解決のため、材料メーカーとの共同研究も積極的に実施しました。複雑な形状をした型物のラジエーターホースの注文を受け、金型中芯の上と下に材料を入れて成形してみたところ、材料の融合する個所がどうしてもうまくつかず不良ばかり。徹夜で成形して何とか納期に間に合わせた、という大変な思いをしたこともありました。
そののち、材料自体も改良されましたが、成形法もトランスファー(注入)成形、インジェクション(射出)成形などなど、めざましく進化しました。

◆技術の伝承について

以前より、ゴム製品の生命は〝配合〟にある・・と言われておりました。
われわれが入社した頃は、技術者が配合を開発し、工場の現場には「配合伝票」=カーボン紙で2枚複写でしたが=を提示し、それに基づく配合作業が行われていました。外部に配合内容が漏れないように、「原材料」「配合薬品」は記号で表していました。まだまだ〝技術は個人のもの〟という考え方が根強く、開発の経過や結果を報告書としてまとめ残す習慣も余りありませんでした。
それではならじと・・・
「配合」を始め、一連の製品開発経過を報告書としてまとめ、それを技術標準にすることより、会社としてのノウハウとして確立する。さらに特許として技術の権利化をする。・・意識と業務のあり方を改革しようとしました。
今では当たり前の、こうした一連の考え方を作り上げるのにも苦労しました。

◆米国での特許研修について

特許業務の重要性が認識されて、米国などとの〝特許係争〟にも対応可能な体制を整える必要性が強まりました。
1980(昭55)年の当時、既にグループ企業においてもT社、D社、A社、K社などが米国へ研修生を派遣しており、体制を整備してきておりました。
遅ればせながら〝派遣〟を計画し、理解と了承を得るべくトップへの説明に赴きました。その場面で・・次のようなやりとりをした記憶があります。

―米国の特許法は、日本国内で勉強できないのか?
「もちろん法律自身は勉強できます。しかし、実際に係争になった場合現地の法律事務所が使えること。さらに大切なのは実際に現地で生活し、肌で現地の考え方を理解できることです。そうした人材作りが是非必要です」
―1人の派遣で年間1000万円は掛かる。本人が実力をつけ帰ってきたのちに、会社を辞めたらどうする?
「はい、5年間は責任を持ちます」
―5年間とはどういう意味だね?
「あえて5年と申し上げたのは、これ以上会社いて辞めて行くとすれば、
会社の処遇が悪いからではないでしょうか」

・・てなやりとりを重ねた上でOKを貰えたことが懐かしく想い出されます。以降、研修生派遣は例年継続されました。

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